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 この探検報告は、ちょっと昔の探検報告です。4年前のことを引っぱり出してきて、探検探検と騒ごうとしているのだから「木彫サイトNARI」はちょっとせこいと思われても致し方ありません。ナリナリ探検隊の最初の報告なのだから、パーッと屋久島へでも行って、縄文杉を探検したいところですが、なんと言っても先立つものがまったくありません。しかし、木彫サイトNARIに是非とも、ナリナリ探検隊のページを作りたい。なぜなら、いずれ探検に出かけて、その報告をするページが必要になるからです。それじゃあ、そのときページをつくればいいじゃん。そうなんだけれど、この「島根の和紙」が調査から4年経った今年 印刷物になったので それじゃあ、ナリナリ探検隊の先触れというか、プレ探検というか コンフィデレーションズカップというか 要するに「島根の和紙」は、突然ではありますがナリナリ探検隊の報告に抜擢されたのです。
 では、この「島根の和紙」は 元はなんなのかということですが 武蔵野美術大学の共同研究の一つとして調査取材した報告書のシマヅが担当した部分の抜粋です。共同研究のテーマは、「紙の民族性」です。漠然として理解しがたいテーマですが、要は、いろんな所へ行ってその土地土地で漉かれる紙を取材し そこからその土地土地の特色を導き出せるだろうかというようなことです。もっと簡単に言えば、日本には、いや世界には、土地固有の紙の作り方がある。だから、取材もいろんなところへ行けるということ?ではなかったかな。美術大学だから 「紙」は表現素材として関わりが深い。この共同研究では、この素材としての「紙」をもう少し大本のところで調査しようとするものです。
(この共同研究に関わった皆様、もし、研究の趣旨が間違っていたら、ごめんなさい。)その取材旅行目的の共同研究の報告書が 今年の4月に発行され 4年ぶりに日の目を見ることになったのです。
 そういう訳で、ナリナリ探検隊結成記念ナリナリ報告書第一弾は、「島根の和紙」です。この報告書は、2部構成で、第一部は、「出雲民芸紙を訪ねる」、第2部は「石州和紙を訪ねる」です。



第1部 出雲民芸紙を訪ねる

 1997/2/26
<出雲民芸紙の紙漉き場の外に積み上げられた薪>
 2月26日、出雲の空は 山陰地方独特のどんよりと雲が垂れこめる曇り空。
 松江市街から中国山地めがけて車を10分も走らせると、家がまばらになり道路の横を川が流れ、前方の山が真近になる。 稲刈りを終え、春を待つ田んぼ。道は少しずつ上り勾配。山と山がだんだんと視界を狭め、道は小さな村に入っていく。道沿いの建物の軒先に「出雲民芸紙」と書かれた木の看板。瓦葺の屋根に板張りの壁。ここが出雲民芸紙を漉く安部信一郎さんの紙漉き場。軒下には薪が人の背の高さまで積み上げられ壁を覆っている。外の小屋の中には、直径1.5mはある大きな釜が二つ。かまどには、炭火が残っている。小屋の外は、水槽が一つ。エプロン姿のおばさんが出たり入ったり。仕事場と前の道路の間には、30〜40cmほどの溝があり、上流から勢いよく水が流れている。道路を隔てて、安部さんの住居、出来上がった紙の保存部屋、原料となる楮、三椏、雁皮の貯蔵倉、板干しのための納屋、湧水の出ている原料の晒し場、そして畑の向こうに安部栄四郎記念館がある。

<安部栄四郎記念館>
  われわれが最初に案内された栄四郎記念館の談話室は 北側が大きなガラス窓で覆われ、この村の風景がよく見渡せる。話は自然に山の話に、そして原料となる楮や三椏、雁皮の話から始まった。出雲民芸紙の里八束郡八雲村岩板は 三方を山に囲まれた谷間の村。村の中心を川が流れ、それに沿って一本の道が川上の村に通じている。この道の両側に村の家々が集まり、その回りに田畑が作られ、ところによっては緩やかな斜面に段々畑が耕されている。段々畑の向こうに山が控えていて、この山から楮、三椏、雁皮が収穫されるのであろうか。はじめてこの土地を訪れた私はそんな想像をしていた。
 出雲民芸紙の原料となる楮、三椏は地元で収穫されるものは少ない。楮は高知産と那須産を、三椏は高知産と出雲産を使用する。雁皮は出雲産と地元山間部から収穫されたものを使用する。雁皮は自生にしか頼れず、地元産のみを使用するが、成長に30年近くかかるのと原木の数が少ないため、生産量は少ない。 「江戸時代までは確実にこの山の原料を使用してました。紙の原料である楮、三椏、雁皮は林業の副産物です。山に入って木の下刈りをしなくなった今では、この村で原料を手に入れることは出来ません」、と安部さんは言う。
  江戸時代、紙漉きは藩の専売品だった。松江藩に限らず原料の栽培から紙漉きまで、藩の生産体系に組み込まれていた。楮、三椏、雁皮は山に自生し、林業の下刈りの対象になる落葉低木樹である。日本の産業が山の恩恵を受けて成立した時代は、地元産の原料は容易に確保されていた。現在は林業で山に入る人は皆無に等しく、そのような山から原料を入手することは困難である。 「だから、ここ出雲紙の原料もほとんど高知の問屋さんから仕入れています。けれどその原料が全部高知のものかというとそうではなく、日本各地から集めて来たものなんです。現在は台湾、韓国、中国はじめアジアからかなり輸入原料が入ってきてます。」「和紙というと、地元の原料を使って地元の水で漉くというイメ−ジですが、出雲ではそうはいきません。地元で楮や三椏を山に入って収穫してくれる農家の人はいませんし、農家の人も山に入って楮や三椏を収穫するより、松江や出雲に出て働いたほうが金になりますから。」とのことである。しかし、この出雲地方で紙の原料が全く収穫されないわけではない。三椏についてはこの村の農家の休耕田を借り、試験的に自家栽培を試みているとのことである。また、出雲地方でも栽培している。しかしそのほとんどは大蔵省が買上げ、紙幣の原料にまわされている。
  原料の話の後、学芸員の安部己図枝さんに栄四郎記念館を案内して頂く。記念館には栄四郎の試作した数多くの和紙、加工紙、その製作過程を記したノ−トのほかに、和紙で出来た生活用品や紙の着物などの紙に関する資料、和紙による工芸品が展示してある。民芸運動との関わりの深かった栄四郎は、この運動を通じて伝統的な技法に現代感覚を加え、新しい加工紙を数多く製作した。もともとこの地方の紙の歴史は古く、天平時代の文献に朝廷に献上したことが記されている。しかし本格的に紙の産地として発展したのは江戸時代のことらしい。大阪、京都の大消費地が近くに控え、情報伝達手段としての奉書、妙紙を中心に様々な和紙が作られたらしい。その後の明治期においても八雲村の七割が専業で紙を漉いていた。機械による製紙業が発展する以前の日本の紙は、手漉きによる和紙が中心である。四方を山に囲まれ、原料となる楮、三椏、雁皮が手に入りやすく、軟水の水に恵まれたところに和紙産地は多い。夏場は紙を漉く際に「ネリ」として使われるトロロアオイが痛み易く、紙漉きは専ら冬の仕事である。だから農業との兼業として営まれることが多かった。そんな家内制手工業としての和紙漉きが盛んな明治35年、安部栄四郎はこの八雲村の紙漉きの家に生れた。
<着色模様和紙>
 栄四郎は和紙を通して、民芸運動の創始者柳宗悦にその美しさを認められ、大正、昭和の時代に多くの民芸作家と親交を結んだ。しかし、洋紙の発展で製紙業界に機械化が進み、徐々に手漉きによる和紙は衰退の兆しを見せ始める。現在では情報伝達手段としての和紙は、完全に洋紙に取って代わられ、今、出雲地方で残っている手漉き和紙の作業所は三戸にすぎない。和紙は耐久性があり、長く持つことが特長といわれるが、第二次大戦前には機械製紙に対抗するため、粗悪品が出回ったこともあったそうだ。そんな中で栄四郎は昭和9年、東京で紙だけの個展を開き出雲民芸紙の普及宣伝に力を入れた。安部信一郎さんは栄四郎の孫にあたる人である。 「出雲民芸紙が現在に残ることが出来たのは、栄四郎が民芸運動と関わったからです。芸術家、工芸家の注文に応じようとする姿勢が、今の出雲民芸紙のバリエ−ションの多さにつながったのです。栄四郎が数多くの和紙を考え、また古代の紙を再現したにも関わらず、特許申請は一つだけです。ほかの技術は、まわりの人に伝授したんです」、と安部さんはおっしゃる。記念館には棟方志功の版画が、そして襖絵が展示されている。棟方志功が栄四郎に送った手紙が展示してあり、そこには栄四郎が作った版画紙についての感想が述べられている。棟方志功の版画紙は純楮紙で、極力薄く光りを通すものを栄四郎に作らせた。 「作り手の注文で紙を作るのが一番いい紙が出来るのです」、と栄四郎は言っていたそうだ。ちなみに日本画家の横山大観は、越前の麻紙を使用したそうだ。麻の処理は手間がかかり難しい。漉き終えた後はそれに磨きをかけるのである。
                  <干し板>
 われわれは、栄四郎記念館の見学を終え、安部さんに和紙を作る現場を案内して頂いた。記念館から畑を抜けて最初の納屋に案内される。ここは天日干しの板を保管しておく場所。畑には干し板を立て掛けるための竹竿が、人の背丈ほどの位置に横に渡してある。晴れた日は 圧縮して水を抜いた和紙を干し板に張り、この竹に立て掛けて干す。干し板は太陽にいつも向いているように気を使う。しかし漉き上がった和紙すべてを天日乾燥するわけではない。ほとんどの和紙は鉄板乾燥で仕上げる。天日乾燥は極上の和紙や、特別に注文された時に行なう。乾燥は短時間で上げるほどいい和紙に仕上がる。曇り続きで時間がかかったものは、干し板から剥がす時、和紙がけば立つ。こういう和紙は、墨ののりが悪いそうだ。干し板にはトチ、イチョウ、松の木が使われる。トチ、イチョウは、木目が目立たず、松は使い込むほどに木目がはっきりと浮き出てくる。この木目が紙に模様を与える。これらの干し板は20年30年と使い込まれたものがほとんどである。いつも同じ場所に和紙を張り込むため、張り込んだ場所は木のアクが抜けてつるつるとして白っぽくなっている。和紙の大きさは紙漉き屋ごとに、あるいは産地ごとに代々同じ大きさで作るため、干し板に着いた和紙の跡は変わることがない。ちなみに安部さんの作る和紙の大きさは「まばせ」と呼ばれ60cm×1mの大きさの和紙を中心に漉いている。
<納屋に納められている原料>
 次の納屋には原料となる楮、三椏、雁皮がすべて納屋の屋根裏に保管されている。原料は木芯のない表皮だけが問屋から送られてくる。安部さんの作業所では、年間にして三椏800貫(一貫=3.75kg)、楮50貫、雁皮20貫を使う。そのすべてがここに保存されているわけではないが、常時絶えることのない分量がここには保管されている。納屋の二階に保存されているのは、湿気で原料をかびさせないためである。楮、三椏は虫がわくため大量の保管は出来ないが、雁皮は長く保存がきき大量に仕入れておくとのことである。一人の職人が一日250枚の紙を漉くために 三貫の原料を使用する。紙漉き屋はこれを毎日の仕事としているのであるから、その原料の確保においても当然神経を使っていらっしゃることであろう。納屋には原料のほかに、昔使っていた簀桁と簀が残してある。現在、紙漉きの道具である簀桁は越前で、簀は高知、美濃で作られる。修理もまたそこで出来るため、屋根裏に残してあるこれらの道具も修理に出し再生される。
 製作工程は前後するが、仕上がった紙は一ヵ所に集められる。そこには、数え切れないほどの種類の和紙が四段の棚に納まり切らず、部屋のあちこちに積み重ねられている。耳を裁断するものはここで耳を落とし揃える。(耳とは、食パンと同じく漉いた紙そのままの端のこと。)「まばせ」サイズの紙が中心であるが名刺サイズのもの、反物状に巻いたものもある。中でもこの部屋では彩度の強い赤や青から、淡い色調で寒色から暖色まで様々な色が目を引く。そして和紙のテクスチャーがいろいろと変化に富んでいる。その中に細かく皺が入った和紙がある。そういったものも漉くことで皺を作るのかと思ってしまうが、その和紙は手揉み和紙と呼ばれ、漉き上がった紙を手で揉んで和紙に皺を入れていく。その皺の大きさ小ささも、お客さんの注文によって決められるとのことである。記念館に展示してあった栄四郎の「染雲紙」も見事に再現されている。これは白の下地に雲のように二〜三種類の色が走っているものである。記念館の試作品に更に繊細さが加わった仕上りである。
    <地下水のわき出る洗い場>
 安部さんは「水」についてこうおっしゃっている。 「紙漉きにとって、水は最低条件です」。 時代の変化とともに、原料はこの村から収穫出来なくなった。しかし安部さんがこの村で和紙を漉き続けるためには、ここの水を、この山から出た水を今も使わなければならない。楮や三椏の皮を水に浸す。煮込む。そしてまた水洗い。繊維を細かくするビ−タ−(叩解機)の中でも。紙を漉くために。紙漉きのほとんどの作業で水は重要な位置を占める。原料を晒し水洗いする洗い場は、紙漉き場から少し離れた川の縁に作られている。深さ1m×一辺1mくらいの水槽が三つ、高さを変えて作ってある。上の水槽には地下からの湧水がパイプで引いてあり、とろとろと水が流れている。 「今年は水の量が減っています」とのこと。
<足踏み打解機と石臼>
  紙漉き場に戻って、入り口の前に最初にのぞいた釜のある小屋、ここには原料を煮込むための釜が二つ。原料の煮込みのほかには、叩解した繊維の染め付けにも使われる。ここでの水は井戸水を汲み上げた軟水を使う。紙漉き場には、部屋の中ほどに漉き舟が三槽。それぞれの舟の脇に井戸水が出る蛇口が付いている。入り口には叩解機が一台。奥に機械式のプレス機。その向かいに、足踏みの打解機が据え付けられている。これは 直径50cmほどの石臼の上に足踏み用の杵が取り付けられ、足の力で杵を持ち上げ杵の重さで臼の中の繊維を細かく砕く仕組みである。すべてのことが機械で行なわれると錯覚する現代にあっては妙に違和感を感じさせる機械だが、これは今でも現役の大切な機械として働いているそうだ。機械式のビ−タ−と違い、楮のような繊維の長いものはこの足踏み打解機を使うことで、繊維をより細かくすることが出来るのだ。
    <鉄板乾燥機で和紙を乾燥するおばさん>
  その奥の部屋には鉄板乾燥機が据え付けられ、熱気を放っている。鉄板乾燥とは縦80cm×横4mの大きさの鉄板が二枚、かまどの上に向かい合うように据え付けられてい る。向かい合う鉄板の側面は密閉してあり、中ではかまどの上で水を沸かし、蒸気が鉄板を100℃以下で熱していて、かまどには薪がくべられている。煙は鉄板と蒸気の下を通って煙突から部屋の外に出ていく。おばさんが漉き終えて水を絞った和紙を一枚ずつ和紙の固まりから剥し、両手で鉄板に軽く張る。すぐに馬毛の刷毛で和紙の皺を伸ばし、和紙と鉄板の間の空気を抜きながら鉄板に張り込む。片面の鉄板に全部張り終えた頃、反対側の鉄板に張り付けてあった和紙が乾燥しておりそれらをきれいに剥し、重ねていく。 「このおばさんにはもう何十年とお世話になっていて、私なんか乾燥ではこのおばさんにはかないません」、と安部さんはおっしゃっていた。
<紙を漉く安部喜久男氏> 
  二つの漉き舟では、安部さんの叔父の土江幹夫さんと弟の喜久男さんが、ザバザバと水音を立てながら紙を漉いていらっしゃるところ。この紙漉き場は協同組合になっていて、三軒の共同施設とのことである。桧の舟の内側は銅版で覆ってあり、中には薄緑の紙の繊維が水に溶け、中の液全体が薄緑になっている。天井には2mほどの細い竹の先が舟の上に来るように据え付けられている。竹の先から数本の紐がつるしてあり、この紐は簀桁に結んである。簀桁が舟の液をすくった時、その重さを竹のしなりがうまく漉き手を助け、簀桁をリズミカルに動かせてくれるのだ。簀桁を動かすたびに液の波が手前の舟板に当たりバサッと音をたて、簀桁の動きと共に向こうの舟板でバサッと音をたてる。簀桁の向こう側と手前の縁に当たった液が同じようにリズムを作って水音をたてている。簀の上に半透明のみずみずしい和紙が姿を現す。漉き手は小さなごみを見つけるとその場でそれをつまみ取る。そして簀桁から簀ごと取り外し、後ろの濡れた和紙の上に辺を揃えて重ねる。すると半透明の和紙は固まりにくっつき、簀だけが剥れるのだ。この濡れた和紙の固まりをプレス機で圧力をかけ 一晩水を抜くとちゃんと一枚ずつ剥がれていくから手漉き和紙には驚かされる。舟の中での簀桁の動きが、簀のうえの繊維の絡みとまとめを見事にやってのけるのである。和紙の厚さや丈夫さは、簀桁を動かす漉き手の経験と勘がすべてである。紙の使い手の要望が、すべて漉き手のこの経験と勘で満たされていくに違いない。漉き手はこの作業を繰り返し一日に250枚前後の和紙を漉き上げる。 「舟の中で液が舟板を打つ音は優しくて、一日聞いていても苦になりません」、と安部さんはおっしゃる。
<水に浸したトロロアオイ>
  舟の中の液は、30分ほど漉くと作り直す。簀桁を舟の前に立掛け、舟に繊維を両手で二すくい程入れ、蛇口から井戸水を足し、舟の脇の瓶からドロッとしたかなり粘りの強い、それでいてよく透き通ったゾル状の液体を柄杓で舟に注ぐ。これがネリと呼ばれる日本の紙漉きには欠かせない液体である。ネリはトロロアオイと呼ばれる植物の根を木槌でつぶし清水に浸けて粘りを出す。トロロアオイを浸けた清水が見事にドロッとしたゾル状の液に変わっていく。これを布袋で濾したものが瓶の中に貯めてある。このネリが舟の中の水に適度な粘りを与え、繊維を液の中でほどよく泳がせることになる。繊維とネリを加えた舟は、お風呂のかき混ぜ棒の形をした混ぜ棒でかき混ぜる。そして、舟の横幅にちょうど納まる長さの大きな櫛のような道具の先を舟の液に浸ける。一本一本の櫛の間隔は10cm程で、元は木で固定してある。それを舟の両側に据え付けてある木の支柱に引っ掛ける。そしてこの櫛を前後に動かすと櫛の先が中の液を切るように動く。すると繊維とネリが液の中で細かくほぐれ紙漉きのための液が出来上がるのである。この櫛は二百回近く手で動かす。私達素人には中の液が何回も紙を漉いたことでどう変化したのか見た目には分らないが、漉き手は紙を漉きながら中の繊維がどれぐらい減ったかをちゃんと感じ取っているのである。
                 <黒皮そうじ>
 紙漉き場の隣、釜の設置してある小屋の後ろには、もう一つ作業場が建っている。ここでも近所のおばさんが二人働いていらっしゃった。藁で編んだ座布団の上に腰をおろし、一昼夜清水に浸けた楮、三椏の一本一本に、手の平に納まる小さな包丁を当てながら皮の一番外側の黒皮を削ぎ落としていくのだ。おおざっぱな仕事ではない。黒皮をすべて取り除き、繊維の傷をすべてそぎ落としていくのである。これは気の長い根気のいる仕事である。部屋の真ん中に小さな火鉢が一つ置いてあった。一人の漉き手が一日250枚の和紙を漉くために、三貫の原料の下準備を、漉き手と同じように毎日繰り返すのである。この紙漉き屋では三人の漉き手がいらっしゃるから、作業はその三倍だ。ここでは家族のほかに、近所の方四人に手伝ってもらいながら紙を漉いていらっしゃる。
  ここで紙漉きの作業工程をまとめてみよう。楮、三椏などの原料を清水に一昼夜浸け込む。これらの皮が水を吸って柔らかくなったら、包丁で黒皮や皮に付いた傷を丁寧にそぎ落としていく。黒皮の取れた楮や三椏は、水に戻した干瓢のようなアイボリー色をしている。これを釜に入れ、漂白のためにソ−ダ灰を加え、柔らかくなるまで煮込む。私たちはこの作業を見ていないが、二時間近く煮込むとのことである。特に白さを出す必要がある時は、苛性ソ−ダで煮込む。煮込んだ皮は、川っぷちの晒し場の水槽で湧水をかけながらアクを抜く。この後これらの皮は、再び水の中で一本一本「チリ取り」と呼ばれる作業を経る。この作業によって邪魔なごみは全部取り除かねばならない。ごみの一切混じっていない状態になると、ビ−タ−または足踏み打解機で細かく砕き紙の繊維を作りだす。これを叩解と呼ぶ。あるものはこれを染色し紙漉きが始まる。漉き上がった紙は一昼夜プレス機に掛けられ水気を取り、これが鉄板乾燥や天日乾燥で和紙が出来上がるのである。手揉み和紙のようにここから加工されていくものもある。安部さんの作業所では、釜炊きの燃料と鉄板乾燥の燃料は、すべて地元で集めた薪を使っていらっしゃる。
 最後に案内されたのは、安部さんのお住いである。外観は昔ながらのどっしりとした建物という印象だが、中に入ってふと思い出した建物があった。それは京都の河合寛次郎記念館である。内部の柱や梁、玄関の上がり框の木材は、無垢の重量感のある木が使われている。柱と柱の間は白壁が塗られ、基礎となる木組みから造作まで すべて丁寧な仕事が施されている。栄四郎がこの家を建てる時、民芸運動を通じて知りあった河合寛次郎に何かとアドバイスを受けて作ったそうだ。通された二階の部屋は 洋間と和室がひと続きの作り。和室と洋間のちょうど境には囲炉裏が切ってあり、囲炉裏の上には河合寛次郎邸と同じようなデザインのがっしりとした自在掛けが掛かっている。われわれは洋間のテ−ブルで安部さんに取材させて頂いた。 「私は、作り手であって表現者ではない。表現者の意図を汲んで和紙を作っていくことはあっても、自ら表現していこうとは思わない。それをやったら、この紙漉き場を守りながら記念館を維持していくことは出来ない」、安部さんがこうおっしゃったのは、記念館の談話室に飾ってある抽象的な図柄の和紙について質問した時のことだった。この作品は あるデザイナ−の依頼で、安部さんがそのデザイナーと一緒に漉いた作品である。この作品は、和紙が何かのために使われるものでなく、和紙そのものをタブローとして存在させた作品になっていた。 「私ら漉き手は、いろんな和紙を漉きますが、この紙はこうしてくれといって作っているのではありません。どう使うかは買った人の自由なんです。」この言葉は ものを作ることにこだわる人の言葉だと思う。
               <安部信一郎氏>
 現在、和紙はどのような用途で使われるのかというと、日本画、書道、障子、襖、室内装飾、ちぎり絵などの工芸品に需要があるとのことである。このような日本の和紙の現状に対して、安部さんは次のようなことをおっしゃった。 「今の時代は、職人が危機に立たされている時代だと思います。ある時代、民芸運動を通じて、手仕事が随分ともてはやされたが、現代はどうであろうか。あの当時の民芸運動で救われたのは極少数の人間だけです。河合寛次郎や浜田庄司だけです。そしてあの人たちは職人ではなく作家になったのです。」 「和紙は、そのうち原料の段階でつぶされるでしょう。日本のどこかで作ってくれるだろうと思っているうちに、日本ではどこでも作れないような状態が訪れないとも限らない。楮や三椏を作る人の賃金の問題もそうであるし 自然環境の問題もある。今のうちに、せめて半分の原料でも地元で作れるようにならないかと思うのですが、行政の手助けが必要です。」 「諦めるのではなく、とことん粘って協力者を作るつもりです。」 「今の段階では、たとえ国産の原料がいくら高くなってもそれを購入しようと思います。そのことでその原料産地を絶やさないことになるし、そこから芽生えて来るものもあると思います。」 「この八雲村で和紙を作っているという地域の誇りや意識が芽生えてくれば、和紙の発展の可能性もあり得ると思います。」「今は何ともし難い状況ですが、未来に和紙という天然素材に対する新しい展望が見えてくると思います。」
 取材を終えた我々は、相変わらずの曇天の八雲町を後にした。

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