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第2部 石州和紙を訪ねる

 1997/2/27      
 島根県那賀郡三隅町は 日本海に面した小さな町である。島根県の地形は、出雲平野から西は中国山地が海に迫ったところが多く 平地が少なくなる。そんな地形の中を国道9号線は 日本海沿いを走ったり、山道を走ったりしながら島根県を東西に貫いている。この国道9号線を松江から西に約三時間、車で移動すると三隅町にたどり着く。三隅町は浜田市と益田市の中間に位置する小さな町である。
 三隅の土地は、三隅川の扇状地がそのまま海に面している。その平野に山の裾野が平地を横切るように競り出し、三隅川がその山を避けながら平地をぐねぐねと蛇行して流れている。 平地には水田や畑が広がっていて 所々に村が点在する。ここは海が近いせいか、中国山地が近い割には山深いという印象を受けない。この三隅町が 石州和紙の産地である。
 石州半紙を始めとする石州和紙は、三隅町をはじめ島根県西部、石州(石見)と呼ばれる地域で漉かれる和紙である。江戸時代の寛政10年に著わされた国東治兵衛「紙漉重宝記」には、「慶雲和銅(約715年頃)の頃より柿本人麿、石見の国の守護職たりし時、民をしてこの製法を教え漉かしむ」とあり、石見は古代より紙漉きが行なわれていた記録がある。江戸時代には 浜田、津和野両藩は紙の専売を行ない、紙漉きの振興と発展に力を入れた。当時の紙漉きの様子が「紙漉重宝記」には詳細に記録されている。(このページ「島根の和紙」のタイトルに使用したイラストは、紙漉重宝記に描かれたものを使用しました。)
      <長見製紙所>
 われわれが三隅町を訪れた2月27日、この日は昨日までのどんよりとした天気とは打って変わって晴天に恵まれた。取材を快く引き受けて下さった長見博さんのお宅は 中国山地と海のちょうど中間に位置する小さな山の中にある。長見製紙所は三方を山に囲まれ、残る一方に百坪ほどの休耕田が広がる。製紙所の前は庭を広く取ってあり、干し板を立て掛ける竿が渡してある。自宅奥の紙漉き場では長見さんが紙を漉いていらっしゃる最中だった。
 長見さんの作業所に着いたのは午前10時半を回っていたが、紙漉き場の漉き終えた紙を重ねておく紙床は、既に5cm程の厚さになっていた。仕事の手を休めて頂き、早速仕事場とその周辺を案内して頂いた。
 石見地方では、昔から楮、三椏の栽培が盛んで、現在でも原料の楮、三椏は地元の石見産のものを使う。昔は麦畑の畦道や山の斜面で多く栽培されていた楮も、現在は栽培地が減り、そのため紙漉き屋が農家に委託し休耕田を利用して楮を栽培し、石見の楮を守り続けている。長見さんの作業所のすぐ裏山でも秋の刈り取りを終えた楮の株を見せてもらうことが出来た。長見さんは裏山のほかに、農家の休耕田を借りて楮を栽培なさっている。
           <斜めに切り取られた楮>
  刈り取りは、毎年12月から1月に行なわれる。1月を過ぎて雪が積もってしまうと、根元の雪に触れた部分が霜焼けを起こし、楮をだめにするそうである。三隅町ではそれほど雪は降らないが、中国山地の奥では必ず雪が降る前に刈り取る必要がある。 刈り取った楮の根元は全て斜めに刈ってある。幹に対して直角に切ってしまうと 株が腐る原因になるそうである。刈り取りはすべて刃渡り10cmほどの鎌で行なわれる。石見の楮には 赤い皮の「まそ楮」と、蛇の鱗ような表皮を持つ「たかそ楮」の二種類がある。「まそ」に比べ「たかそ」は皮が厚く、いい品質の紙が作れるそうだ。刈り取った楮の株は、4月から5月に新しい芽を出す。夏は幹の途中から出た枝芽を芽かきし、株の回りの下草を刈る。また「たかそ楮」では、一年で4m近くにまで成長するものもある。楮は一年だちのものを紙漉きに使う。二年以上の楮は「ふる楮」と呼ばれ、ほとんど使われない。
<蒸して筒へきされた楮>
  収穫時期を終えていたため実際に見ることが出来なかったが、この後、楮は1mの長さに切り揃えられ、紙漉き場の奥にある大きな釜の上に、これまた大きなせいろをのせ、その中に原料を横にして入れた後、釜を煮えたぎらせながら二時間蒸気で蒸す。蒸し上がった楮は、その小口を杵で叩く。そうすると皮と木部が剥し易くなる。片方の手で原木を持ちもう片方の手で表皮を持ち、根元を足に挟んで表皮を下へ引っ張って表皮を剥取る。そうすると最後の表皮は筒状になって、木部からすぽっと抜ける。これを「筒へき」と言い、石見地方の楮の特長だそうだ。ちなみに高知の楮は、最後の部分は筒にならずに剥取られる。これを「すぼへき」と言うと長見さんはおしゃっていた。こうして原木から剥取った表皮を、自然の風に当てて充分乾燥し、貯蔵しておく。長見さんの作業所では、原料の楮を庭先の納屋に貯蔵しておられる。その納屋は土間から少し高い位置に床が張ってある。これは原料を湿気から守るためである。ここに積み上げてある楮はすべて「筒へき」の楮である。筒になった部分は1mの表皮の先のほんの5cmから10cmほどの長さであるが、これらの楮がすべて三隅周辺で栽培されたものであることを証明している。
  長見製紙所では楮のほかに三椏の表皮が貯蔵してある。石見地方では雁皮があまり収穫されないため、長見製紙所は雁皮紙は漉いていらっしゃらない。これらの表皮は紙を漉く分づつ半日水に浸し、「そぞり台」の上で包丁を使って一本一本の黒皮を削り取る。石州和紙は 黒皮と白皮の間の緑色をした「あま皮」と呼ばれる部分を残し和紙に漉き込んでいく。他の地方では黒皮を取り除く時、「あま皮」も一緒に取ってしまう。この「あま皮」を残すという原料の扱い方が、石州和紙の強靭さの要因の一つだそうである。
      <ちり取りをする長見夫人>
 黒皮を取り除いた白皮は 、大きな釜の設置してある奥の仕事場の前の湧水の水槽で、丁寧に不純物を洗い流した後、直径1.5mほどの釜の中にソ−ダ灰を加えた水を沸騰させ、その中に原料をほぐしながら入れる。二時間近く煮沸する。 煮込んだ原料はまた湧水の水槽で一本づつ丁寧にチリと呼ばれるごみを取り除く。この仕事は奥様の仕事である。私たちが訪れた日、長見さんが紙を漉いていらっしゃる時も、われわれに説明と案内をして下さっている時も、奥様は水槽に渡した竹の簀子に座布団を敷き、そこに正座して、腰をかがめ、頭を腰と同じ低さまで下げて、水面に浮いた楮の繊維を一本一本丹念にほぐしながらチリを取っていらっしゃった。山陰地方の2月の寒さの中、外の水のそばで、手を水の中に浸けたままの作業は、初めて見た私たちにはとても絶えられそうにないと思ってしまう。 「もう慣れましたから」、と奥様は顔を上げることもなく黙々と仕事を続けていらっしゃる。 「今年は例年になく水が少なく、指もすぐ冷たくなる。湧水の多い年は、朝の寒い時間には 気温より湧水の方が暖かいので 水槽から湯気が立つこともあるんです。」と奥様はおっしゃった。 「チリというのは、どうしても一本一本を目で確かめて、手で取らないと取りきれないのです。このチリが和紙に混じってしまうとその紙は売り物にならなくなってしまうので、和紙漉きには欠かせない仕事です。チリというのは 楮の枝の部分で皮が厚くなったところや、幹と幹が擦れて傷ついたところの表皮が厚くなり、これがチリとなって、皮を剥いだ後でも残ってしまうのです。」と奥様はチリ取りの仕事について説明して下さった。
<叩解機>
 こうして奥様がチリ取りをした原料は、長見さんの手で叩解される。叩解とは原料の白皮を叩きつぶして、細かい繊維にする作業である。石州和紙の叩解の方法は、固い板の上に原料を乗せ、樫の角棒で繊維を丹念に叩き砕いていく方法が取られる。昔から「六通六返し」といわれ、左右に六往復叩き、表裏六回返してそれぞれに六往復叩くのだそうである。石州和紙の「稀(まれ)」という等級の和紙は 必ず手打ちによる叩解が行なわれる。現在では作る和紙に応じて「ピ−タ−(三隅ではそう呼ぶ)」という叩解機を使う場合もある。「ピ−タ−」は紙漉き場に設置してある。楕円形の水槽の中を水と一緒に原料がエンドレスに流れ、歯が幾本も付いた歯車が流れてくる原料を切っていく。これに20分ほどかけることで原料は細かい繊維になっていく。叩解が終ると水槽の中の水と繊維は、竹を組んだ囲いに布を掛けたところへ流し落とされる。ここで水を切ってしまう。この時繊維は薄く黄緑色を帯びている。これは「あま皮」による色だそうだ。
<叩解後の繊維>
 洋紙に用いられる木材パルプの繊維の長さは、せいぜい1mm程度であるが、和紙の繊維は楮で10mm、三椏で4mmの長さである。この長い繊維が絡むことで和紙は強靭になっていくのである。
 叩解された繊維は軽く水を切って、いよいよ紙漉きが始まる。漉き舟は桧材で作られ、中にステンレスの薄板が張ってある。舟のそばには井戸水が出る蛇口があり、この水を使って紙を漉く。舟の脇にはトロロアオイが砕いて水に浸けてある。トロロアオイは強い粘りけを持ち、この粘りの出た液を布袋で濾して漉き舟に入れ、水、繊維とよく撹拌する。トロロアオイの適度な粘度が水の中で繊維を均一に浮遊させる。
                 <かき混ぜる>
  撹拌は、棒でよくかき混ぜた後、出雲で見たのと同じように舟と同じ幅の長さの大きな櫛状の道具を舟に付けかき混ぜる。長見製紙所では、叩解機を回した動力を使ってこの道具を動かしていらっしゃった。天井には数本の竹が舟の上に来るように据え付けられている。竹の先から紐がつるしてあり、この紐が簀桁の手前と簀桁の向こう側にくくり付けてある。繊維と水の重い紙料をすくったり捨てたりする簀桁の動きを、この竹の弾力が軽くリズミカルなものにするのである。 簀桁と漉き簀は 通常、石州半紙八枚分の大きさのものを使っていらっしゃる。紙漉きは まず簀桁で手前から液を軽くすくって、漉き簀全体に液が行き渡るように比較的穏やかな動きで簀桁を前後にゆする。次は液を深くすくい上げ、前後に大きく簀桁を動かしながら、簀桁の中の液を踊らせる。液は向こうの簀桁に当たってしぶきを立てて簀桁の外へ落ち、また手前の簀桁に当たってしぶきを落とす。この大きな前後の動きの回数で紙の厚さが決り、また、簀桁の中で繊維が絡みあっていくのである。簀桁の中で和紙の厚さが出て来たら、簀桁の中の余分な液を一気に向こうへ流し落とし、一枚の紙漉きを終える。この作業は一分にも満たない時間で行なわれる。漉き上がった簀の上の紙は、漉き簀ごと簀桁から外され長見さんの後ろの紙床に和紙と和紙を合わせて重ねる。漉き簀の縁を折り、強く押した後、漉き簀をめくると和紙は紙床に残り、漉き簀だけが剥される。漉き簀を簀桁に戻し、また紙を漉く。
<紙を漉く長見さん>
  10リットルのバケツ一杯の繊維で20〜23枚の紙を漉くそうである。漉いた枚数を数えながら漉くのではなく、簀桁で液をすくった時に、液の中の繊維がどれだけ残っているかが分るのだそうだ。また繊維が少なくなった漉き舟に、バケツ一杯の軽く絞った繊維を入れる。そして棒でかき混ぜ、櫛状の道具でよく撹拌した後、同じように紙を漉いていく。長見製紙所の紙漉き場は 漉き桁の中で踊る液が、ザバッザバッと音を立てる以外、とても静かな場所である。
<紙床に漉いた紙を重ねる>
  こうして長見さんは朝7時頃から漉き始めて、夕方までに250枚から薄いもので三百枚の和紙を漉かれる。 「石州和紙は 楮のアクを大切にするのですよ。」と長見さんは紙を漉きながら教えて下さった。未晒し(漂白しない紙)は冬の間、漉き舟の液をそのまま使い続ける。つまり舟の中に楮のアクを溜め続けるわけだ。ただ、手打ちによる叩解では 砕かれた繊維の中にアクがそのまま残っているため、漉き舟の液を毎日取り替えてもアクは十分にあるのだそうだ。ただ夏場はのりの腐敗を防ぐため、舟の液は毎日交換する。
                  <プレス機>
 こうして一日に漉いた和紙は紙床にどんどんと重ねていき、紙床の厚さは10cm近くになる。紙床は隣のプレス機の下にスライドして移され、一晩圧力をかけて水を抜く。水を抜いた紙床は3〜4cmの厚みになる。こうして水を抜いた和紙は、一枚一枚剥がしても破れることがなく、きれいに紙床から剥すことが出来る。
 紙漉き場の奥の部屋には鉄板乾燥機が据え付けられている。出雲で見たものと同じようにかまどの上に鉄板が急勾配の屋根の様に組んであり全体の高さが1.5mほど、幅が3〜4mの装置である。側面にも鉄板が張ってあり、鉄板の中は密閉してある。その鉄板はほんの少し傾いているだけでほとんど垂直である。鉄板の下のかまどで水を沸騰させ、鉄板を100℃以下で熱する。長見製紙所では燃料にガスを使っていらっしゃる。この作業は朝からのチリ取り作業を終えた奥様が、夕方から鉄板に一枚一枚の和紙を刷毛で張り付けていく。鉄板乾燥は和紙を張って数分で乾燥し、仕事が速い。しかし、和紙の繊維が一気に畏縮してしまうそうである。「稀」の石州和紙は、鉄板乾燥ではなく、天日乾燥を行なう。長見製紙所では、いちょう、松の干し板を使い、晴れた日に長見さんと奥さんが二人で干し板に和紙を張り込んでいく。長見さんは、 「自然のものを扱う以上、人間も和紙を正直に作るのです」、とおっしゃる。こうして乾燥した和紙は、夕食後長見さんの手で裁断される。石州和紙八枚分の和紙の全紙が乗る大きな木の台の上に、二百枚近い和紙を置き、木の定規を当て、包丁を使って裁断していく。
 <伝統的工芸品のマーク>
  石州和紙には、「稀」と「鶴」の二つの等級がある。「稀」は現代に於ても機械を用いず、石州和紙の伝統的な作り方で作られる。叩解作業での手打ち、乾燥作業での天日乾燥によって作られた石州和紙が「稀」となる。「稀」は昭和44年文化庁の重要無形文化財に指定され、平成元年には通産省の伝統工芸品に指定された。
 石州和紙は、書道用の半紙の他、文化財の補修用紙、提灯の紙、障子、襖紙、版画紙、石見神楽のための紙、民芸品としての葉書、封筒、便箋、名刺など、紙の厚さと等級によって様々に使い分けられる。石州和紙の特長は、和紙の美しさもさることながら、その強靭さにある。それは文化財の補修に用いられることからも分かる。石州和紙は遠くバチカン市国に渡り、ミケランジェロのフレスコ画の洗浄補修にも使われたそうである。
 最近三隅町では、小学校の卒業証書に地元で漉いた石州和紙を使っていらっしゃる。また、実験的に石見地方の盆踊り歌などの「和綴じ本」の製作を行なっている。和紙による和綴じ本は、紙の薄さと軽さ、そして、中性紙という科学的な耐久性に加え、一枚の和紙が八千回から一万回の折りにも絶えるという強靭さを兼ね備えているのだ。
<和紙で作られた神楽面>
  また、三隅町の神楽は、神楽用の面を始め、衣装、大蛇の胴に至るまで、すべて地元で漉いた石州和紙で作られる。神楽面は一般的に木で作られることが多く、多少は重いものだが、長見さんの御宅に飾ってあった面を実際に手にしてみると、しっかりとした作りに反して、手に取った感触は全く軽い。衣装は、薄い布の裏を和紙で裏打ちし、それに刺繍を施して作る。大蛇の胴に至っては10m近い胴を竹で作った芯に和紙を張って作るのだ。それを引きずりながら夜どおし舞っても、胴の和紙は破れることがないそうだ。この神楽が三隅の各村々にそれぞれ一つづつあり、全部で二百近い社中がある。それらの社中がすべて、石州和紙で作った神楽面や衣装を使う。このように神楽面や衣装を和紙で作るようになったのは、江戸時代の頃からという。三隅の神楽は軽快なリズムと早いテンポ、そして激しく勇壮な動きが特長です。三隅の神楽のこのような特長は、石見地方の人々の気性そのものだと思う。そして、石州和紙の強靱さは、石見の人々の気性や神楽の動きと大いに関わりがありそうだ。
 石州和紙の強靭さについて長見さんはこんな話もして下さった。江戸時代、大阪の商家が火事になった時、店の帳簿を井戸に沈めた。火事の後帳簿を井戸から引上げても、それらは水に溶けたり、破れたりすることがなかったのだそうだ。そしてこれらの帳簿に使われた紙が石州和紙なのだ。「なぜ、そんなに石州和紙は、強いのでしょう」、という質問に長見さんは、 「石見の楮と、気候と、そして自然が強い紙を作るのではないでしょうか。」とおっしゃった。
 その強靭さと保存性を持つ石州和紙が 国際交流にも大きく関わっている。三隅町は1985年より、ブ−タン王国との交流がある。ブ−タン王国では古くから山に自生するダフネという植物を使って、手漉き紙を漉いているが、このダフネ紙は質が悪く、事務用の紙は輸入に頼らざるを得ない状態だそうである。ブ−タン王国は日本の優秀な手漉き和紙の技術を取り入れて、自国の紙の品質を改善しようと、日本に協力の要請がなされた。三隅町はその要請に応え、ブ−タンからの研修生を受け入れ、日本の手漉き和紙技術を指導している。私たちもダフネ紙の原料の繊維を始め、昔からブ−タンで漉いていた溜め漉きの紙、そして日本の手漉き和紙技術で漉いたダフネ紙を見せて頂いた。同じダフネの繊維で漉いた紙でも、石州和紙の手漉き技術で漉いた紙は、繊維が均一で、楮や三椏で漉く和紙と同じような仕上りである。
 三隅町は研修生の受け入れだけでなく、紙漉きの機材一式をブ−タン王国に寄贈し、三隅の職人が実際に現地を訪れ、釜を設置し技術指導も行なっている。国際交流の始った当初、ブ−タン王国と日本との文化歴史の違いで、来日した研修生が 日本の風呂に入った後、風呂の水を全部抜いてしまったことや、座敷の床の間に布団を敷いて寝たことなど研修生との間にいろいろなエピソ−ドがあったと、長見さんはおっしゃっていた。三隅町の紙漉き職人さん達は そんな研修生を優しく見守り、現在に至っている。今では、三隅町の中学生との交流会や、婦人会との料理教室による交流会など、紙漉き以外での文化交流の機会が持たれているそうだ。
<「夢あわせ」で販売されている和紙製クッション>
 このように三隅町は、地元の和紙産業と密接に関わりを持っている。出来上がった和紙は、紙漉き屋が直接問屋と取引する他、三隅町が各紙漉き屋から和紙を集め、販売に関わっている。三隅町の商店街には町営の和紙テストショップ「夢あわせ」を営業し、石州和紙産業の広報と振興に勤めている。近い将来には、「和紙の里」という石州和紙会館を作り、石州和紙の資料館を始め、新しい和紙の展開を研究する施設やブ−タンとの交流館、三隅神楽伝承館を併設した大掛かりな施設を建設する計画が進んでいるとのことである。その施設では、石州和紙の後継者を三隅町の職員として位置付け、国際交流をはじめ石州和紙の保存と継承の担い手として育成していくそうである。
 石州和紙は現在、三隅町で七戸、桜江町で一戸の紙漉き屋によって 作り続けられている。長見製紙所は伝統的な石州和紙だけを、奥様と二人で漉いていらっしゃる。現在、後継者はいらっしゃらない。しかし長見さんは、 「うちにこの家業を継ぐものがいなくても、ほかのところでこの仕事を続ける人がいますから。」とおっしゃる。他の製紙所では若い世代の職人さんが、千代紙、染め紙をはじめ、紙で作った布や和紙を使ったインテリアなど、和紙の新しい試みがなされているそうだ。
<完成した半紙を見せてくださる長見博氏>
 さて、最後に長見さんご自身のことにふれておきたい。長見さんは昭和5年にこの三隅町に生れた。家業としての紙漉きは昭和20年、学校を卒業して以来、天職として漉き続けていらっしゃる。この地域でも、紙漉きは農業の副業であり明治中頃には6377戸が紙漉きを営んでいた。その後、洋紙の普及と機械漉き和紙の参入で大幅に紙漉き屋は減少したが、長見さんが家業を継いだ昭和20年当時でも、農業の副業としての紙漉き屋が五百戸あったそうである。しかし、戦後、農業の管理化と減少により、紙漉き屋は大幅に減少し、専業化していくことになる。長見さんが紙漉きを専業にしたのは昭和30年から昭和40年だ。その頃までは傘紙を中心に、伊勢の型紙、障子紙を漉いていたそうである。しかし昭和30年以降、洋傘の普及で傘紙の需要が全くなくなった。長見さんは、「この時期が一番つらかった。」と当時のことを思い出していらっしゃった。いろいろな和紙産地を見て歩き、民芸品を調べて歩いたそうだ。そして、生産する品目を傘紙や型紙から便箋、葉書、色紙や封筒に変えて、石州和紙を漉き続けたそうである。その当時でも三隅で五十戸の紙漉き屋があったそうだ。生活の苦しい年は夏から秋にかけて、土木作業員に出て働いたそうである。そして昭和44年、前述のとおり「稀」が文化庁の重要無形文化財の指定を受ける。このことで石州和紙は、全国にその名を知らしめ、石州和紙が現在に至る大きなきっかけとなったのである。その後、今後の石州和紙の総合的な振興を図るために、三隅町と桜江町の紙漉き屋は石州和紙共同組合を設立した。平成元年に通産省の「伝統的工芸品」に指定される。
 このような時代の変化に加え、三隅町は二度の自然災害に見舞われた。昭和18年と58年に三隅川の増水による堤防の決壊で、大洪水が三隅町の海沿いを襲った。昭和18年の時、長見さんは二年間、災害復旧活動に従事された。昭和58年の時にもまた、消防団員として町を守ったと教えて下さった。昭和58年の洪水がどれほどの規模であったかは、私たちの宿泊した旅館の二階の柱の中ほどに印されていたその水位から、想像を絶する大洪水だったことがうかがえる。三隅町はそれ以来、土木建築業が増えたそうである。町の人の話によると、このような大洪水はそれ以前には記録がないそうだ。江戸時代は浜田藩の伐採禁止令により、山の木は守られてきた。明治、大正期に入り、三隅の山の木々は鉄道の枕木のために伐採され、これが大洪水につながったのではないかとのことである。 「三隅とは水澄むという意味でもあるのです。今は一軒になってしまいましたが、この地区には、昔三軒の造り酒屋があったんです。昔からここはいい水に恵まれていたんですよ。」と長見さんはおっしゃる。石州和紙は、石見の気候と水が、そこで作られた楮と自然の調和を保ちながら漉かれることで、その強靭さと保存性を失うことなく作り続けられてきた。気候と水、原料としての楮、これに対して、人間が手を抜くことなく正直に手をかけることで、石州和紙は現在に至っているのだ。 「私は、職人ということにこだわり続けています。私は、同じ紙を毎日漉いても、いまだに完璧な和紙にお目にかかったことがありません。ですから、少しでもいいものを漉きたいという気持ちで毎日仕事をするんです。」 一枚の和紙を漉き続けることに、長見さんは喜びを感じながら仕事をしていらっしゃるに違いない。そして奥様は毎日 長見さんが漉く分の楮のチリを取り続けていらっしゃるのである。石州和紙のきめ細かい白さと肌合いは、紙を漉く職人の腕だけではなく、それを支える奥様のような人がいらっしゃるからこそ生れることを 私たちは実感した。石州和紙は、原料と水だけで作られるのではなく、そこで紙漉きにたずさわる人達の和紙への関わり方が石州和紙を作り出しているのだ。
 私たちが三隅を発つ日、長見さんはこうおっしゃった。 「私は一をもって、十を貫く覚悟で紙を漉いているんです」と。その言葉に私は、胸が熱くなる思いがした。

     <休耕田を利用した楮畑>



 この取材旅行でお世話になった安部信一郎様、長見博様、取材させていただいてから少し?時間が経ってしまいましたが なんとかこのような形でまとめることが出来ました。本当にありがとうございました。


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