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1,愛木宣言
2,西日本と東日本
3,樟脳
4,木彫とクスノキ
5,東京国立近代美術館の木彫

 私はクスノキを愛している。それなのにクスノキは、滅多に私の前に姿を現さない。このまえ君と過ごしたのは、去年の春だったよね。。その時の君はちょっと小振りな体つきで私に身をまかせ、君といるといつもそうしてくれるように すがすがしい清水をまき散らしたような香りで私を包んでくれた。あれから1年が過ぎ 今年の春 私はテーブルの制作を依頼されている。その天板を探しに新木場へ行き そこでまた君と再会した。その瞬間 今度のテーブルは君なしでは作れないと確信した。彫刻とは違う姿の君を私は作りたい。
 いま、ちまたではJ民党幹事長の愛人問題で週刊誌が騒がしいようですが 私は堂々と宣言します。私はクスノキを愛しています。国会や週刊誌がなんといおうと クスノキは私の愛人である。ではなく クスノキは人とは違うので 愛木ということになる。
 こんな事を書くと 私も春の陽気で狂ってしまったかと思う人は大勢いると思いますが いよいよ仕事に油がのってきたなという人は ほとんどいないと思います。ま、どちらでもいいことなのですが。
 
 
本来すべての木を愛するのが私の基本姿勢なのですが、木に関わり続け 木のことが少しずつ見えてくると 好きな木、よく知らない木、よく使う木、愛すべき木、女王様のような木という風に それぞれの木に対して気持ちの在り様が少しずつ違ってくるのは自然な成り行きです。ではクスノキが愛人になら、家人は何かというと 一番よく使うケヤキということになります。では女王様は何かというと ヒノキです。
 女王様がなぜヒノキなのかは また後日書くとして 今回私は新木場くんだりまで行って しかもお金を出してまでクスノキを手に入れました。私にとってこういうことは珍しいことです。よく考えたらお金を出してでも買ってしまうのは いつもクスノキです。それなら 彫刻用の材料をいつもどうやって手に入れているんだというと 区画整理や宅地造成、あるいはただ邪魔になったということで伐採される木をもらってくるのです。このような理由で私はクスノキの事をあえて愛木といってみたのです。(お金を出すから愛人だというわけでは決してありません。)

 いま書いたように 私は多摩周辺で伐採された木を貰ってきます。それらの木を眺めていると 多摩地区の木の植生や木と人の関わりが見えてきます。さっき愛人がクスノキで 家人がケヤキだと書きましたが、つまり多摩地区にはクスノキが少なくケヤキが多いということです。多く植えられているという事は 切られる本数も多いということになります。当然私の所にやってくる木もケヤキが多くなるのです。伐採される理由は宅地造成や区画整理もありますが そればかりではありません。ケヤキは落葉樹だから、秋に大量の葉を落とします。木が大きくなるにつれて それが隣の家の庭に落ちたり 雨樋を詰まらせたりして始末が悪い。そんなことで伐採されたりします。ところが私の所に集まってくる木の中に クスノキは殆どありません。伐採されたクスノキと出会ったのは、2回だけ。クスノキは多摩地区では殆ど伐採されないということです。では植えられていないのかというと そうでもない。植えられています。どこにって 公園に。つまり、楠は植樹用としては公園などに植えられているが、町中で見かける一般的な木ではないということです。そういうこともあって クスノキにはついつい心が行ってしまうのかもしれません。
 しかしこの現象は西日本へ行くと逆転するのではないでしょうか。なぜそんなことが言えるのかというと 私は兵庫県の出身です。兵庫県は押しも押されぬ西日本です。兵庫県で過ごした子供の頃を思い出してみると 村に一本大クスノキの木があったり 小学校にも神社にも大きなクスノキが植えてあったりして よく見かける大きな木と言えばクスノキだったような気がするからです。
 わたしは、いつも憶測や思い込みで物事を判断し失敗します。この「西日本はクスノキ、東日本は、ケヤキ」という私の憶測も 「多摩地区にはケヤキが多くクスノキが少ない」という現象も私の所に集まってくる木だけに見られる現象で 事実はまったく違うものだったら大変です。だからこの部分を明らかにせずに 話を次へ進めることは出来ないでしょう。それを証明する簡単で手っ取り早い方法はないでしょうか。あります。それは「県の木、県の花」です。早速インターネットで検索していると「県の木一覧表」を見つけることが出来ます。これによるとクスノキを県の木にしているのは、鹿児島・熊本・佐賀・兵庫で ケヤキを県の木にしているのは、埼玉・福島・宮城だということがわかります。どうですか。この見事な別れ方。「多摩地区にケヤキが多くクスノキが少ない」という証明にはなりませんが、東日本にケヤキ、西日本はクスノキという証明にはなったと思います。では多摩地区にケヤキが多く、クスノキが少ない」というのは 東京都23区と市町村の木を調べれば明らかになるでしょ。早速「東京都 市町村」で検索してみました。しかし今度は、ぴったりの情報が見つかりません。東京都庁のホームページにも一覧表になったようなものはありません。こうなったら何が何でも調べてみたい。途中「東京都のマンホール」というページも参考にしながら東京都下の23区と島以外の市町村の木を調べて行きます。「東京都のマンホール」というホームページは マンホールの写真を集めたホームページです。マンホールはそれぞれの町の木や花を図柄にしていることが多く それを見れば市町村の木がわかります。ここで判らないものは、各市町村のホームページを訪ねて調べました。ところがリンクが壊れていたり、木や花の事が出ていない市町村があったりします。そういうところは電話で確認しました。西東京市に至っては、ホームページを探してもそれらしい項目がなく、電話で確認してみると、「市の木・市の花を制定するかどうかも決まっていない。」と言われてしまいました。散々探して見つからず それでもと思い電話したのに そんなことを言われたので「花や木を決めるぐらいで何をそんなにもめているんだ。人間だけで暮らしているわけじゃないぞ。」と腹が立ってきた。そんなわけで「東京都の市区町村の木」は思った以上に手間取ったのでした。しかしその甲斐あって 私の推測を裏付けるドンピシャの結果を得ることが出来ました。それによると ケヤキをその町の木にしているのは、23区では新宿・渋谷・板橋。市町村では、武蔵野・清瀬・小金井・国分寺・小平・東大和・立川・旧田無・旧保谷・東村山・府中・町田です。どうですか。多摩地区のそうそうたるメンバーが名を連ねているではありませんか。では、クスノキを町の木にしているところはというと 2カ所 大田区と調布市があるだけです。次に西日本の鹿児島か熊本のどこか一県の市町村の木を調べれば 東京と全く逆の現象が現れて 私の確信に磨きが掛かるに違いありません。しかしふと こんな事を調べて何になるというのだろうという気がしてきて 市町村の木の探索は止めました。
 止めたといっても 東京都と同じように詳しく調べるのを止めただけで たとえば偶然見つけた福岡県の市町村の木のデータを見てみると やはりクスノキを町の木にしている所がいたるところにありました。
 さて蛇足ですが 兵庫県がなぜクスノキを県の木にしているかについてちょっとふれておきたいと思います。もちろん西日本なのだからクスノキはいっぱいあるはずです。しかし「兵庫県のマンホール」を見た限りでは 兵庫県下の市町村の木にクスノキはそう多く選ばれているわけではありません。なぜ兵庫県は 県の木がクスノキなのに 市町村の木にクスノキが少ないのか。下の3つの理由の中から適切なものを適当に選べという問題があったとして みなさんはどれを選びますか。
1,「県がクスノキを選んでいるのに 市町村の木までクスノキにすることはない。クスノキは県にまかせて 我々は他の木を選ぼう。」そういう県民性である。
2,兵庫県にはもちろんクスノキがいっぱいある。それ以上に各地域には特色ある植物がある。
3,「時は鎌倉○○何年、鎌倉幕府の横暴に怒った後醍醐天皇が 河内の国の多聞丸 後の楠木正成に倒幕の命をくだして 正成が ベンベン」と、突然口調が浪曲調に変わる。そして太平記は大詰めの湊川の合戦。九州から攻めあがってきた足利尊氏を 湊川で迎え撃つのは、時の英雄楠木正成。そう。兵庫県には楠木正成の湊川神社があります。だからとにかくクスノキが県の木なのだ。
 さて、どれでしょう。
 実際のところ、その真相はわかりませんが 楠木正成の湊川神社の存在は大きいような気がします。つまり何が言いたいかというと 鎌倉時代に大阪出身の豪傑に「楠木」という名前をつけるほど 西日本ではクスノキが一般的でしかも巨木だったということ。やっぱり蛇足かな。
 蛇足ついでに もう一つ蛇足。クスノキは西日本。ケヤキが東日本に適しているから、それぞれの地域にそれぞれの木が多くなるのは当然でしょう。それにしても多摩地区の市町村の木が殆どケヤキだという状況は 自然の植生分布などでは説明しきれない 多摩の人々とケヤキとの何か深い関わりが見え隠れしているように思うのですが。これは次の機会にじっくりとホームページ容量をさかねばならない問題だと思いませんか。

 

 さて、新木場で購入したクスノキはいま私の仕事場でされるがままに身体を横たえています。私はクスノキが身につけていたほんのわずかな皮さえも もどかしげにはぎ取るや、とぎすましたカンナ刃で その肌に染みついた新木場の汚れを洗い流すかのように削り落としていく。するとクスノキは 薄いピンクの木肌を見せながら あの甘酸っぱいような それでいて清水のようなすがすがしい香りで私を包み始める。「あ〜。この香り。この香りが君だよね。」この瞬間 目の前の木がクスノキであることを改めて実感するのです。クスノキの木肌を削ったことのある人なら誰もが 嗅いだことのある香り。クスノキはこの香りでどんな木彫家をも虜にします。
 こんな事を書くと 春の陽気は人と木のみさかいが付かなくなるほど 私を発情させてしまったと 勘違いされる方がいるかもしれませんが そうではありません。私はただクスノキの香りを みなさんにお伝えしたいだけなのです。
 さて、この香り。人はこれを樟脳と呼びます。樟脳と聞いて タンスの防虫剤を思い浮かべた人は40歳以上の方ですね。セルロイドの樟脳船が思い浮かんだ方は、還暦を過ぎていらっしゃるのではないですか。私の場合は 防虫剤の世代です。今では 防虫剤としての役割もほとんど化学薬品にその座を譲り 樟脳は生活の場から消えようとしています。しかしかろうじて防虫剤としての樟脳がまだ市販されているので 樟脳の香りを知りたい方は 探してみてください。無駄なお金を使いたくないとおっしゃる方は、とりあえず大きな公園に行って、クスノキを探してみましょう。そして木から葉っぱを取って手で揉んで鼻に近づけてみてください。いい香りがしてきます。その香りの元が樟脳です。樟脳はクスノキの中に含まれます。クスノキを釜の中でクツクツ煮ると樟脳と精油が水蒸気の中に溶け出します。その水蒸気を冷却すると樟脳と精油が精製されるそうです。こうして出来た樟脳が 実は明治の中頃から昭和の初めにかけて 日本の経済を背負って立っていたのです。「え、うそ!クスノキの樟脳が?」
私はこの事実を知ったとき クスノキへの愛は畏敬へと変わりました。
 ある特定の植物が一国の経済を担うということは 珍しいことではありません。ブラジルのコーヒーやインドの綿花。キューバのタバコ。アフガニスタンの芥子。これは冗談になりませんが 例はいろいろあります。ところが電気・機械・鉄鋼・自動車など植物とはあまり縁がない工業ばかりが目に付く今の日本からは 「クスノキで日本経済を・・・」はちょっとイメージできないでしょ。
 そんなことないよ。明治時代には 蚕から絹糸を作ってどんどん輸出し日本の経済を支えた繊維工業の歴史を知らないのか。あれはまさに桑の木と蚕という植物と昆虫を原料にした工業ではないか。という意見もあります。それはよく知っています。日本史で勉強しました。それじゃ何で驚くのかというと、その当時世界市場の8割を占めたといわれる日本の樟脳の事を 歴史の時間にほとんど学んだ記憶が無いからです。記憶に無いのは私だけで みんな知っている?。うむーーー。このことについては 市民のみなさんへのアンケート調査と 小学校と中学校の歴史の教科書を再度読み返してみる必要があります。が、ホームページ容量の関係から、その部分はまたの機会に調査させていただくこととして、今回は私の記憶だけで話を進めさせていただきます。
 実は樟脳のことを調べていく内に このことに関してまったく勉強しなかった訳でもないという気がしてきました。では どのように習ったのかということについては、最初に樟脳が何に使われたかを明らかにしなければなりません。
「え、防虫剤じゃないの?。絹繊維工業が盛んになって、その関係で防虫剤の需要が伸びたとか。」「ブッブー。はずれ。」。実は 1870年代にアメリカで実用化され始めたセルロイドの材料に樟脳が使われたのです。セルロイドとは プラスチックの始まり。つまり最初の合成樹脂です。セルロイド製品は明治の始めに 日本に輸入され始め 明治中頃に日本でもセルロイドの生産が始まりました。「青い目の人形」という童謡に「青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド」という歌詞が出てきます。まさにそのセルロイドです。キューピー人形の最初もセルロイド製です。家内制手工業が中心だった江戸時代とは打って代わって 明治に入った日本は、工場制機械式工業を欧米から導入している真っ最中でした。その最中、新しく生まれた化学工業の材料が まさに日本を含む極東アジアに生息するクスノキ から採取される樟脳だったとは。そして、日清戦争でぶんどった台湾が クスノキが群生する島だったとは、何という運命の巡り合わせでしょう。セルロイドの生産が世界中に広まり、樟脳の需要が一気に高まるに従い、日本政府は樟脳をタバコや塩と同じ専売品目にして 台湾のクスノキを切り尽くして行ったのです。しかしこのことが余り知られていないのは、切り倒されたクスノキがほとんど台湾だったことと 樟脳が殆ど輸出品だったからのようです。このように知ったかぶりをして書いている私自身も「神戸大学新聞記事文庫」というホームページで「樟脳工業」という言葉を目にするまでは まったく知らなかったことなのですが。それにしても日本人という奴は この時代からすでによその土地の森林資源を枯渇させるのが得意だったとは。ちょっとトホホの話です。
 さて、上記の通り 樟脳はセルロイドの原料として大量に消費されたのですが、歴史の時間に勉強したのは 実は樟脳の事ではなくて「日本で化学工業が起こったことと セルロイドが日本で生産され それが代表的な輸出品目になったこと」だったのです。もし歴史の時間に上に書いたようなことも一緒に学んでいたら 私たちのクスノキに対する態度も違っていた・・・。いや、今でこそ 木に興味があるから こういうことも興味深く調べるけれど、中学や高校の頃 こんな話を聞かされていたとしても はたして覚えていたかどうかあやしいものです。
 ま、とにかくクスノキには樟脳が含まれていて これが日本の経済を左右した事もあるんだぞというお話でした。
 
 さて、今仕事場のクスノキは みみの部分以外すべて薄ピンク色に新しい木肌が削り出され 木目を鮮やかに浮かび上がらせながら横たえています。私はその木目を最初は目で 次に手のひらで そして指でなぞり 少し脂性の木肌を一年ぶりに確かめる。そして今確かめたばかりのその木肌に ほんの少し近づけるだけでも切れてしまいそうなほどに研ぎ澄ましたノミを立てるや その柄頭に玄翁を振り下ろす。強く強く弱く、強く強く弱く。そのリズムに合わせて ノミの刃先はクスノキを切り 私の汗と共に木片が散る。かと思うと今度は 荒々しくさらけ出された木肌を 玄翁は使わずノミと腕の力だけで 私の求める形の上にまとわりついた何十枚もの絹のベールを一枚一枚めくり取るように 木肌に刃を入れていく。するとクスノキは私が力を入れた分だけ 刃先にその身体(肉)を切らせる。その一瞬に 刃物で木を切る(削る・彫る)快感が満ちあふれる。その感触はケヤキほど堅くはなく ヒノキほど柔らかくない。私を拒むでもなく、私に委ねるでもなく 自制と衝動の間で彫ることを夢中にさせる感触なのである。
 こんな事を書くと 私が樟脳の香りで幻覚を見ながら クスノキと一緒に遠い世界へ行ってしまったのではないかと 心配する人がいるかもしれませんが、心配には及びません。私はただ クスノキの切れ味を少しでもみなさんにお伝えしたいだけなのです。
 実は こんな事改めて私が書かなくても 木彫家はみんなクスノキを使っています。クスノキは木彫用材として昔から一般的に使用されているのです。
「ちょっと待って!。みんなって誰よ?。昔からって どれぐらい昔からなのよ?。一般的ってどう一般的なのよ?。そんな上辺だけの言葉で私のことを説明しないで。しっかりと私を見つめて。」(突然、怒り出すクスノキ。)
 あ、ごめん。こんな書き方は 愛する人 じゃなかった愛する木に対する文章ではないよね。「みんな使っているから 私も使う。」「一般的で無難だから、私も使う。」そう書いているようなものだった。そんなことで クスノキを愛しているなんて言う資格なんか無いね。
だれがどんな風にクスノキを使っているのか。そしていつ頃から使われ、どれぐらい大勢に愛されているか 私はクスノキへの愛の証として それを調べ尽くすことを誓う。

 まず最初にみんなって誰かというと 現代作家では 江口週、黒蕨壮、小島弘、小畠廣志、澄川喜一、松田一戯、松井公正、山縣壽夫などなど。これは1994年に開催された「第4回現代日本木刻フェスティバル」の招待作家の中でクスノキを材料名にあげている作家です。名前だけがずらっと並んでもピンときませんね。では2000年に讀賣テレビでドラマ化された「永遠の仔」の元になった本、(幻冬舎刊)天童荒太著「永遠の仔」のカバーを思い出してください。そこに舟越桂の木彫写真が使われています。その彫刻は彩色されているため あまり木の表情を読みとることは出来ませんが クスノキで作ったものです。
 もう一つ「みんな」を代表して平櫛田中(1872〜1979)の材料にまつわる逸話を書きます。田中(タナカじゃないよ。デンチュウだよ。)は107歳まで彫刻を作り続けた彫刻家です。彼は100歳を過ぎて なお20年分の彫刻用の木を購入しましたが その木がクスノキです。その大きさがまた逸話になるほど けた外れの大きさだったのです。そのクスノキの4分の1が 今も東京都小平市の平櫛田中館に展示されていますが、クスノキがいかに巨木になり得るかの身近な見本です。
 そんな大きなクスノキを購入する田中さんのことです。木彫作品は当然全部クスノキに違いありません。そうはいっても憶測で話を進めるわけには行きませんから 小平市立平櫛田中館の木彫作品を検証することにしましょう。木彫作家の資料館なら当然そういった資料もすぐ見つかるでしょう。早速私は田中館へ行き、所蔵作品の目録を見せていただきました。ところが目録の 材料の欄には 「木」と書いてあるだけで、樹種が記入されていないのです。私はあわてて学芸員の方に作品の樹種について何か資料がないのかをお尋ねしました。すると田中館では木彫作品の樹種を記録した資料は特に作っていないとのこと。こんな事で平櫛田中館は大丈夫なのか。日本の木彫の未来は真っ暗だぞ。まあ、そんな大げさなことでは無いのだけれど。しかし書き記した資料はないものの 学芸員が知る範囲で教えてもらった分と私の見識というか目利きから判断した結果、木彫作品すべてがクスノキというわけではありませんでした。ヒノキもあれば山桜もあり、エンジュもあれば梅もあるという感じです。しかしクスノキの作品は 数としては決して少なくないことがわかりました。

 ここまで書くと何か誤解されそうですが 私は表現が素材だけで決定されるなどと思って こんな事を調べているわけではありません。舟越桂の木彫が クスノキであろうと桂であろうと 舟越桂は桂です。じゃなくて 舟越桂の作品は 舟越桂の作品にかわりはないのです。(名前が桂だけに紛らわしい。)また田中さんが山桜だけを彫っていたとしても 田中芸術の真髄に何の変化もないはずです。ただ今回は クスノキを溺愛しているという立場で書いているため、こういうことを書いているわけなのです。しかしここまで書いたのだからもう一つつっこんで クスノキがいつ頃から木彫に用いられているかについても触れておきましょう。
 それはズバリ、国立博物館研究誌「MUSEUM」第555号の「日本古代における木彫像の樹種と用材観ー7・8世紀を中心に」に詳しく書かれています。
 それによると 日本の木彫像は文献的には「日本書紀」553年に「樟木」で吉野寺の仏像2躯を作ったとあるのが一番古いようです。それ以降6世紀後半には いろんな木彫像が制作され 日本の仏像は初期の頃から金銅仏とともに 木材が重要な用材だったと記されています。そして「7世紀の木彫像は クスノキを用いて作ることが規範になっていたのではないかと考えられる。」とも書いています。つまり仏教が伝来し仏像が日本で作られるようになって以来、7世紀の木彫像の用材は 殆どクスノキだったということです。しかも「この用材観は、インド、中国、朝鮮半島には知られておらず、7世紀の日本に特有の現象と考えられる。またクスノキを仏像の材とすることは 仏教教典にも知られていない。」らしい。
 現存する7世紀クスノキ彫像の代表作は法隆寺の救世観世音像ですが そもそもなぜそのような用材観が生まれたのか。そのことについても この報告書は書いています。「西日本を中心に クスノキの巨木が沢山あった。今と違って、平地も山も原生林だらけだったはずです。その数もさることながら その大きさたるや、朝日夕日に照らされたクスノキの影が遙か遠方の山を蔽うほどの大きさなのである。そのようなクスノキに人は生命、魂、神を感じていたのです。そしてそのような木で仏像を作るからこそ その仏像に霊を宿すことが出来ると人々は考えたのです。」と。
 それがどうして8世紀になって 仏像にクスノキを用いなくなったのかというと、その頃から仏教のより詳しい教典が輸入されたり 「生きる仏教教典」ともいうべき「鑑真」が来日して 本場の仏像の作り方を 教え広めていったからです。
 とにかく、このように 日本人が木彫を作り始めたとき 最初にクスノキを使ったんだということは わかっていただけたでしょうか。 

 ところで 私は最初から 7世紀の木彫像が何の木で造られているかを調べるつもりで この文章を書き始めた訳ではありません。平櫛田中にからめて せいぜい近代の木彫作品の樹種が調べられないかなあと思い、インターネットで検索していたところ、上の報告書を見つけたのです。では当初の目的である近代から現代の木彫作品の樹種の件はどうなったのかというと それらしい資料を見つけられないでいるのです。「木彫・樹種」ではそれらしいものが検索できず、「木彫」で検索したりもしました。そうすると例えば「東京国立近代美術館」のページに出会います。そこでは 木彫の所蔵作品と作者を検索するところまでは出来るのですが、その木彫作品の樹種が何かということまでは出ていないのです。結局、ホームページではそれらしいものを 発見できなかったので 東京国立近代美術館にメールで問い合わせてみることにしました。 その結果は、「そのような資料は、ない。」とのことです。反対に「あなたが調べてください。」と言う内容のメールが帰ってきました。
 何度も言うようですが 木彫作品の樹種が何であるかなんて事 実に些細なことです。でも国立博物館の研究報告でもわかるように 千年以上も経ってから 「これは何の木なんだろう。」といって調べ始めたりする人もいるのですから、木彫を所蔵している美術館は、今の内に資料を作って 樹種を明確にしておいた方がいいと思いますよ。よけいなお世話かな。
 さて、「あなたが調べてください。」と言われては じっとしてはいられません。早速5月のある日曜日 竹橋の東京国立近代美術館へいきました。「カンディンスキー」展が併設されていましたが、今回はそれには目もくれず 常設展一本勝負です。つい肩に力が入ります。彫刻作品は、主に中2階に展示されていたことを思い出しながら、私は一目散にそこへ向かいました。ところが中2階がありません。いつも見慣れた常設会場ではないのです。不審に思い案内所で訪ねると 美術館内が全面的に改装され この春リニューアルオープンしたのだそうです。したがって以前3階か4階で首都高速の渋滞を眺めながらコーヒーを飲んだあの薄暗い喫茶スペースも今はありません。話がそれてしまいました。彫刻の話です。
 東京国立近代美術館のホームページによると ここには、372点の彫刻作品があります。そのうち木を素材として用いている作品が約70点あることになっています。しかし今回の常設展で実際に見ることが出来た木の作品は、4点です。今更こんな事を書くのも何なんですが 美術館へ行ったからといって そこの所蔵品を全部見られるわけでは無いんですよね。それにしても 70点の内の4点とは ちょっと・・・。
 とにかくその4点の調査開始です。まず4階の佐藤朝山(1888~1963)の「動」(1929)という作品は 着色されているため木の表情を見ることが出来ません。従って樹種は不明。
 続いて 橋本平八(1897~1935)の「幼児表情」(1931)は なかなかおもしろい作品です。橋本平八は生き様も壮絶というかユニークというか生真面目というか。そういう話ではなくて 樹種です。この作品の刃痕はたどたどしくて 下手くそぶっていて 硬質な感じを漂わせるのですが クスノキですよね?。
 3階に降りてきて 植木茂(1913~1984)の「北前船」(1976)がある。この木は、導管がはっきり現れていて 色は茶褐色。クスノキではないようです。私にとって導管がはっきりしている木といえばケヤキですが、これはケヤキとは表情が違います。エンジュですか?。
 2階には 彫刻というよりインスタレーションとしての遠藤利克(1950~)の「無題」(1983)があります。ここに用いられている素材は 木は木でも1970年代までよく見かけた木の電信柱です。では、その電信柱の樹種は何かというと杉です?。 
 はい、以上です。気合いを入れて臨んだ常設展だったのですが 木彫作品が4点しかないのでは とうていクスノキへの愛の証を立てたとはいえません。ちなみに木の名前の後に?マークを入れたのは、それが私だけの判断によるもので 今のところそれを実証するなんの手だても無いからです。もし、木の目利きが出来る方、あるいは、これらの作品の樹種をご存じの方がいらっしゃったら、ぜひお知らせください。

 私は晴れ上がった五月晴れの中、美術館を後にしました。そしてもてあまし気味の気持ちを落ち着かせようと 北の丸公園をぶらぶらと歩きました。「ああ、ここにもクスノキが植わってる。」私は 公園のクスノキが目に付きました。「ついでだから クスノキの参考写真を撮っていこう。」と思い立ち、カメラのシャッターをパチリ!。そうやって一本一本の木を見ていくと、北の丸公園は、そこらじゅうクスノキだらけです。前に「公園にはクスノキが植わっています。」と書きましたが ここの本数はちょっと多すぎやしませんか。北の丸公園も200年前なら江戸城のまっただ中。そんな昔から ここにクスノキがあるはずがありません。なぜって、クスノキといえば、西日本。西日本といえば 薩摩、長州。徳川幕府とは、仇敵同士です。そんな仇敵の土地に多く茂っているクスノキを江戸城に植えるはずがないでしょ。きっと徳川慶喜が江戸城を明け渡した後の明治新政府が 江戸城への積年の恨みと故郷への郷愁から クスノキの種をばらまいたに違いありません。それとも最近問題になっているヒートアイランド現象で 東京がクスノキの生育に最適な温度になってしまったとでもいうのでしょうか。あるいはクスノキの実だけを好んでついばむ野鳥が異常繁殖し、その鳥の糞から クスノキの種がどんどん発芽しているということも考えられる。いや、もっと単純に 北の丸公園の責任者が樟脳中毒者なのかもしれない。私の勝手な想像は 止めどなく広がって クスノキのことが頭から離れません。私は思わず「誰か、クスノキを忘れさせてくれ。」と叫んでいました。その声にふと我に返ると 私はクスノキの木陰のベンチで居眠りをしていたのでした。
 さあ、早く帰ってテーブルを作ろう。樟脳の良い香りを嗅ぎながら。
え!、ひょっとして私、樟脳中毒?

 この文章を書き終えたあとのことになります。1986年に東京銀座の西村画廊で開催された、「舟越桂・近藤克義・千崎千恵夫」展のカタログがヒョッコリ出てきて その中の岡田隆彦という人が書いた舟越桂についての文章に 舟越桂がクスノキの事について述べた言葉としてとして次のような文章が紹介されていた。「欅のように硬すぎない。檜のように刃物にうるさくなくてもいい。彫るのにちょうどいい抵抗感がある。研けば硬そうな仕上がりになる。また、彫っていく時の木の切れていく感じが好きだ。」
 舟越桂があまりにも似たようなことを言っているので びっくりしてしまった。さては舟越桂も・・・。 

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