「何か欲しい物は、ありますか。」と聞かれて、「別に。」と答えられる人は、幸せです。欲しい物があると、マクドナルドへ入って、コーヒーを飲んだりするときも、すぐ頭の中に 欲しい物が浮かんできて、すると口は自然に半開きになり、視線は宙を泳ぎ あっという間に2〜30分が過ぎてしまう。半開きの口からは、いつしかよだれが流れ コーヒーどころかそのよだれさえも冷えてしまう。その冷たさに ふと我に返ると 隣の女子高生に、「気持ちわりー。」と言われる。欲しい物を思って白昼夢を見、突然喜んだり叫び出したり 苦しくて胸をかきむしり、そこが化膿して、熱が出る。欲しい物がない人は、そんな恥ずかしい思いや苦しい思いをしなくてもすむ。欲しい物がない。つまり無欲の人は、無の境地に立って 日々是好日と暮らせるのですから、とても幸せです。また、欲しい物は、あるけれど、それがすぐ手に入る人の場合も、欲しい物が無いのと同じように幸せであり、無の境地であり、日々是好日なのです。
ところで「欲しい物がすぐ手に入らない。」あるいは、「自分の思い通りにならない。」など欲求にうまく対処できない状態を何といいますか?。「欲求不満」といいます。我々は、この欲求不満に見舞われた時、どのように対処すればいいのかを中学時代に学習しています。憶えていますか?。保健体育の授業でです。それまでの保健が体の健康を考える授業だったのに、ある日、保健とは、精神の健康も考えなければいけません。ということで精神の健康が加わってきます。そして、社会性や欲求への対処のことを学ぶわけです。つまり人間は、ある年齢が来ると2次性徴が始まり、性への欲求がむくむくとわきおこってくる。これを野放しにしておくと発情期の犬ネコと同じになってしまう。それで性欲も物欲もいろんな欲望をひっくるめて その対処方法を学習したのです。私が中学の頃は、「抑圧、合理化、逃避、退行、昇華」などという言葉が出てきたように思い、改めて、図書館で中学校の保健体育の教科書(東京書院刊)を借りて調べてみると、今の教科書は、そんな抽象的な言葉は出ておらず、「趣味やスポーツで気分転換する。」「問題の原因をみきわめ、解決しようと行動する。」「じっとがまんする。」などというように具体的な内容が一つ一つ書いてある。とにかく、物欲よりも性欲の方が旺盛だったあのころ、その性欲熱を下げるために保健体育で「欲求への対処」が処方され、私達は、せっせとクラブ活動で汗を流し、こっそりとオナニーをして「適応」していた。 さて 歳月は流れ 性への欲求に対しても何とか適応する術を身につけ 平穏な生活?をおくる私を今、物欲がおそっています。物欲で熱が出て、うなされているのです。そこで今回は、この物欲とじっくり向き合ってみようと思います。 最新型のパソコンを手に入れるには、「お金を払って購入する。」ということが、現代では、一見当たり前のように思われていますが 果たしてそうなのでしょうか。我々は、そう思いこんでいるだけではないのでしょうか。ここはひとつ 物を手に入れるには、どんな方法があるのか 改めてじっくりと考えてみようではありませんか。そのことで欲しいパソコンを手に入れる新しい方法を見いだせるかも知れない。あるいは、今の冷え切った日本の経済に新しい活路が生まれる可能性もないとは言えない。 「物を手に入れる方法1」は「狩猟採集」である。狩猟採集の対象となる物は、所有権のない物でなければならない。ところが今日本に所有権のないものが殆どない。一昔前なら、かすみ網で渡り鳥を捕ったりしても罪にはならなかったけれど、今は殆どの野鳥が保護の対象である。田んぼのあぜ道のヨモギでさえ、本来ならその土地の所有者の許可がなければ採ることはできない。タラの芽や松茸を採ったらまず訴えられるだろう。川原で漬け物石一つ拾ってきてもそれは、罪である。だから、最近自然石の漬け物石を見かけることもほとんどない。昆虫採集もしかりである。採集は、自然物ばかりではない。田舎から東京へきた20年前、粗大ゴミの中からいろんな宝物が採集できた。経済は右肩上がり。天井知らずの勢いでした。各家庭から物があふれ出し 使えようが修理できようが、いらなくなればポイポイポイ。「中には、ゴミを拾うの?」と顔をしかめる人もいますが、物にも心があると信じる私は、そんな彼等がもったいなくて、つい拾ってきてしまう。あのころの景気が続いていれば、きっと最新のパソコンを採集するということも可能だったかも知れない。しかし、今や、当時の面影は、どこにもない。ゴミは、各市町村毎に厳しく管理され、電化製品は、リサイクル法によってゴミとして出すことさえ許されない。
「物を手に入れる方法2」は「作る・育てる」である。「子供が欲しい。」といって採集してきたらそれは誘拐である。犯罪です。しかし、それを作って育てても 誰にもとがめられません。ただし、作る状況が合法的な場合ですが。食物を作る場合は、どうでしょう。今住んでいる都営アパートで農業はできるだろうか。6畳にプランターを並べて、畳に並べただけだと収穫量が知れているから、3段ぐらいの棚を作って順次陽に当たるように位置を変えながら育てる。肥料は、当然人肥。つまりおしっことうんこ。これを ペットボトルにためて 熟成させて、・・・・。これは、無理。小さな家庭菜園なら可能ですが、専業農家は、無理です。土地を買ったり借りたりするその代償で、食物が買える世の中です。 「物を手に入れる方法3」は「奪う」である。採集も自然の物、所有者の曖昧な物を奪っているのかも知れないが ここでいう「奪う」は、他人の所有物を奪うである。奪う者は強く、奪われる者は弱い。そして奪われるから弱くなる。力で奪う以外には、こっそり奪うがある。しかし、こっそりは常に奪い続けることが難しいので、奪うは通常強い者が奪うということになる。いったい何が強いのか。人類の最初の強さは、肉体の強さでしょう。それが、武器の強さに。石よりも鉄。刀より矢。矢より鉄砲。鉄砲より爆弾。そして核爆弾。私もパソコンを奪う?。しかし私には、堂々と奪う強さがない。では、こっそり奪う?。それも怖い。強い者は、身勝手なルールを押しつける。弱い者は、抵抗できない。強い者は弱い者にさまざまな恐れを抱かせる。最近では、中学生が同級生から、何千万というお金を恐喝する事件さえ起きた。中学生は何をそんなに恐れていたのか。恐れの中で一番怖いのが死である。ところが先日、死をおそれない人たちによって、旅客機が乗っ取られ、ニューヨークのビルに墜落させるという自爆テロが起きた。安易にどちらが強者、どちらが弱者とは言えないが、最終的に死を恐れない者が一番強いのかも知れない。
「物を手に入れる方法4」は「交換する」である。力関係でいつまでも奪い合っている間に 力関係が均等化してくる。例えば大昔、よく切れる鉄器を持つ民族が一番強かった時代があった。ところが全ての民族に鉄器が行き渡るようになると力が均等化し、物のやり取りは略奪から交換へと代わってくる。そして、交換手段として貨幣が生まれ、貨幣経済が発展する。 物を手に入れる方法を 1から4まで並べてみたけれど、今、私が生きているこの数日の内にパソコンを手に入れる方法は、4の貨幣経済のルールに従ってパソコンを購入するという方法が、最良の方法のようです。 ところで「物を手に入れる方法」を決めたからといって、それで私の欲求は満たされたのでしょうか。採集だ略奪だと書いたところで それはパソコンが欲しいという欲求を一時的に忘れさせているだけです。抑圧しているに過ぎません。では、どうすれば欲求は満たされるのか。ズバリ、解決。一発即答。「欲しい物を手に入れればいいのです。」貨幣経済のルールに則って、それを購入すれば欲求は満たされ 熱も冷めます。お金で解決するなら、解決しましょう。よかった。よかった。じゃあ買いに行きましょう。何をためらっているんですか。
ここでまた ちょっと話がそれてごめんなさい。
文章の途中ですが、私は、「お金儲けの方法」が載った教科書を探しに 図書館へ行かなければならなくなったため、この文章をここで終わらせて頂きます。欲求不満になると思われる方は、次のホームページの「防御規制」http://www.tkcity.net/~issue/kokoro/boueikisei.htmlをよく読んで欲求に対処していただくか、これからも木彫サイトNARIの文章を読んで パソコンの結末がどうなったかを調べてください。あしからず。 |